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2020年12月1日火曜日

うつ病の対策 うつ病中にやってみたこと 1

 うつ病はとかく苦しい病気です。4度も経験すれば、慣れるかって?単に学習能力がないのか、4度目でもやはり、死ぬほどしんどい思いをしました。

ということで、うつ病中にこれまでやってみたことを書いてみます。

1. 急性期

なにもできません。うつ病の急性期は、一日中頭の中をぐるぐる回るこの世の終わりのような思いで身動きがほとんど取れません。食欲もなく、便秘にもなり、睡眠不足にもなります。テレビ、特にニュースやバラエティがうるさく感じ、横になって転がっているだけでした。

肩、腰、首、胸等、あちこちの凝りがひどくなり、呼吸も浅くなりました。さすがにこれではまずいと思い、ラジオ体操をやってみたり、ヨガをやってみました。急性期の後半はほとんどこの二つをこなすのと、入浴時間を長めにするのを心掛けてやってみました。効果があったかどうか、正直定かではありません。

2. 回復期

明るく考えることはできないものの、思考は復活してきたので、映画やドラマを見ることができるようになりました。この時期はただひたすら、ドラマ、ドキュメンタリー、映画、漫画をU-NEXTで見まくっていました。また、少し涼しくなってきてから、散歩に出かけるようにしました。とはいうものの、やはり頭の中では良いことは考えられず、散歩をしても楽しめなかったのを覚えています。

以下は、やってみて、NGだったものです。

1) 塗り絵:地道にやるのはどうも性に合わないらしく、40色くらいの色鉛筆を買ったのに、結局無駄に終わりました。

2) 運動:ある精神学者が、「抗うつ薬を飲むのと、30分程度の運動は同程度の効果がある」と言っていますが、運動が好きかどうかで、無理にやる必要はないのではないかなぁと個人的には思っています。私は運動嫌いなので、せいぜい散歩をしていましたが、それでも、脳裏をよぎるのは良くないことばかりで、むしろ歩きながら、拷問を受けているようでした。ただ、うつ病回復期の後半になってからは、積極的に散歩に出るようにしました。体力回復には明らかに有効ですので。

3) 瞑想・マインドフルネス:これも、そこそこ精神状態の安定しているときには有効ですが、急性期で頭の中が嵐の状態にあるときには、とても瞑想なぞできたものではありませんでした。

2020年11月19日木曜日

うつ病の発症4回目 9 うつ病からの復職 1

 9月下旬、うつ病の回復具合が6割くらい戻った自覚があり、心療内科の担当医に復職の可否について、相談しました。

私の職場との契約は12月末までで一旦切れることになっており、仕事に復職しないと間違いなく契約の更新はないと思ったためです。

担当医の回答は、「じゃあ、一度復職してみますか?」でした。ただ、一か月以上も休職していたこともあり、体力が落ちている他、喧噪に耐えられるかどうかが分からなかったため、医師と協議し、10月の最初二日は半日勤務、それ以降はフルタイムという条件で、診断書を書いてもらい、職場に提出しました。

職場の回答は、「ならし」の期間を設けることは難しいということであり、それでも、2週目は月水金にフルタイムというところまで妥協してくれました。

うつ病の復職は難しいと言われ、いきなりフルタイムを要求する企業も少なくないと言われています。先にも触れましたが、うつ病は薬を飲んで一気に100%回復する類の病気ではなく、回復期に少しずつ、良くなっていきます。

幸い、私の復職を職場は比較的自然に受け入れてくれました。ただ、年配の方々はうつ病に対する理解がないからか、冷たい対応を取る方や、「元気でやってくれたまえ」と的外れな発破をかける方がいました。


2020年11月15日日曜日

うつ病の発症4回目 5 うつ病急性期 2

 これまでと違ううつ病という感覚は、自分にとっては大きな戸惑いでした。これまでであれば、趣味の本を見る、写真を撮るという行為はうつ病の症状を和らげてくれるものでしたが、今回に限っては、趣味の本を見ることもつらく、カメラを触れない期間が2か月も続きました。

恐らく、うつ病の急性期自体は8月中旬から9月中旬の1か月ほどだったと思うのですが、この間、朝起きてもそわそわして何もできない、朝食のパンを焼くのもおっくう、昼食や夕食の献立を考えようにも頭がまとまらない、暑い中買い物に行くのも面倒くさい、という日々でした。

タイミング悪く、妻が手術を受けた後で体をほとんど動かすことができず、どうであれ、自分が炊事、洗濯、掃除などの家事一切をやらなければなりませんでした。

話が前後しますが、うつ病の悪化で、結局心療内科の担当医と相談し、8月末から1か月間休職をすることにしました。うつ病で休職をされたことのない方のため、少し参考までに触れておきますと、担当の医師(精神科であれ、心療内科であれ)に診断書を書いてもらい、休職願を添えて、それをそのまま総務や人事の担当部署の責任者に郵送します。

ここで、マジメに、診断書を職場に届け、説明しようなどとは思わない方が良いと思います。一部上場企業であれば産業医や保健師がいて、対応してくれる可能性がありますが、日本の企業の精神疾患に対する対応は大きく遅れています。普通は、総務や人事の担当者から、診断書受領の連絡があり、その間どのような対応をするのか、例えば、週1回報告の電話を入れる等、メールなり電話なりで指示が追って伝えられるはずです。


2020年11月14日土曜日

うつ病の発症4回目 4 うつ病急性期 1

 心療内科に早めにかかり、抗うつ薬のサインバルタを一日2錠、抗不安剤のデパスを一日2錠に増やしても、睡眠導入剤のユーロジンの効果で眠れるようになっただけで、憂鬱な気分が回復することはなく、一日中足に重しをつけられたように、体がだるい日が続きました。

今にして思えば、うつ病急性期の始まりで、

① ほぼ一日中憂鬱である

② そわそわして落ち着かない

③ 気持ちがぐらつき、不安定な感覚がある

④ 耳鳴りがする

⑤ 肩、腰、胸等に強い凝りを感じ、内蔵が冷えている感覚がある

⑥ 食欲がない

⑦ 趣味や娯楽に興味が持てなくなる

⑧ 仕事でケアレスミスが増える

⑨ 物事に対し、過剰にネガティブ思考になる

⑩ 理解力が低下する

⑪ 人と話をするのが辛い

などの、うつの症状がこの時には出ていました。

4回目のうつ病がそれまで3回と明確に違ったのは、うつ病の主たる原因が新型コロナウィルス(COVID-19)の広がりによる不安だったことです。

うつ病はうつ病の原因を解決する、あるいは、うつ病の原因のもとから離れる、取り去るなどすれば、かなりの確率でうつ抜けできます。

しかし、新型の感染症に対する解決策などなく、また、世界中どこへ行っても大差のない状況で、かつ海外に出ることすらままならない状況の上、記録的な日照不足の7月と、酷暑の8月のおかげで、うつ病が悪化し、とうとう職場に通うのもこんなんな状況になってきました。


2020年11月12日木曜日

うつ病の発症4回目 3:うつ病の兆候

 うつ病の兆候は、思考がネガティブになったところから現れました。アベノマスク、全国民への一律10万円の給付等、場当たり的な政府のCOVID-19対応には頭に来るものがあり、始終怒りを感じていました。

それが、7月に入る頃から、段々諦めと厭世観が出てきて、変わらないCOVID-19への政府、行政へのつたない対応に嫌気がさし、ニュースを見たり、新聞を読むのが嫌になってきました。

決定的に一段エレベーターが落ちたな、と感じたのは、期待していた夏のCOVID-19の鎮静化がなくなったことによる、業務での年度内の海外出張がなくなったことでした。

私は25歳頃から、海外暮らしを合計6年、海外出張を年間50-70日のペースで過ごす生活を続けてきており、国内でたまったストレスを海外で発散することで、心のバランスを保ってきていました。

「今年の海外出張はなくなったよ」。同僚の言葉は、私のうつ病の発症の大きな一つの要因になりました。

こうして、8月15日頃からうつ病の急性期に入り、有給休暇を使って、週に2日程度休むことが増え、ついに8月25日から、人生初のうつ病による休職に突入してしまいました😥😥。

2020年11月11日水曜日

うつ病の発症4回目 2

 4回目のうつ病の発症は突然訪れました。

3回目のうつ病発症時と同様、うつ病の兆候を感じたため、二日に1錠服薬していた抗うつ薬のサインバルタを毎日服薬し、デパスも同様に毎日服薬に変更し、担当医に連絡して心療内科の診察を10日間早めました。

担当医には、不安な感覚があること、そわそわと落ち着かないこと等を伝え、うつの兆候が出ていることから抗うつ薬、抗不安剤の増量を頼みました。医師の対応は素早く、抗うつ薬のサインバルタを2錠、抗不安剤のデパスを2錠、またユーロジンを1錠処方してくれました。

でも、時すでに遅しでした。ここからうつ病の急性期が始まり、8月中旬には職場から帰宅した後は全く身動きが取れなくなるほど落ち込みました。うつ病の急性期を言葉で表現するのは難しいですし、人それぞれ異なった印象を持つようですが、台風の大雨の中にさらされているようだという人もいますし、私はいつも壊れたエレベーターに乗っているような急速に落ちていく感覚があります。

うつ病再発の原因は何だったのでしょう?

今でも自分で特定の要因を探すことはできません。うつ病にはストレスが起因していることが大きいと言われますが、当時、ストレサーとなっていたものとしては、

1) COVID-19の中での通勤:非常事態宣言下でも週3回は通勤していました。
2) 妻の入院:COVID-19の影響もあり、面会はかなわず、週2回、必要なものを持って行き、持って帰るだけの日々が2か月続きました。
3) 職場の業務内容の大幅な変更:出張がなくなり、ただパソコンの前に座り、いつ再開できるかわからない研修プログラムについて、各国の関係者、講師とメールやZoomでやり取りする毎日でした。
4) 7月の記録的な日照不足と、8月の猛暑:特に、梅雨明け後のマスク着用での出勤は苦痛以外の何物でもありませんでした。



うつ病の発症4回目 1

 3回目のうつ病が寛解しようとしていた今年の春、世界は新型コロナウィルス(以下、COVID-19)によって、大きな影響を受けました。

私自身、3月頃までは気楽に過ごしていて、3月上旬にインドネシアへ出張に行ったりもしました。

旗色が急激に変わってきたのは、3月中旬以降です。私の仕事は、海外の提携大学へ講師を派遣し、研修プログラムの実施を見守る仕事だったのですが、COVID-19の影響により、そもそも海外へ出張へ行くことができなくなりました。組んでいたスケジュールをキャンセルする手続きに追われ、相手先と延期にするのか、中止にするのかの打ち合わせをメールやZoomでやり取りする仕事が続き、知らず知らずのうちにストレスをためていたようです。

うつ病の予防の観点からすると、普段と違う自分に自分で気づくことが必要であり、それができないなら、家族など身の回りの人からうつ病の兆候を指摘してもらうことが大事なのですが、妻が5月から2か月入院しており、自宅と職場を往復するだけの日々で、毎日COVID-19への政府や行政の対応に疑問や憤りを感じていたり、不可避の条件下で不幸にも帰国した友人、知人を支援するのに奔走し、自分が疲弊し始めていることに気が付きませんでした。

2020年11月8日日曜日

うつ病 の発症3回目 1

 2018年に薬が完全に抜けてから、うつ病とは無縁の生活を一年以上送っていました。

ただ、自分にとってうつ病発症の原因を作った上司に対する印象は悪くなり、上司との折り合いが悪くなったこともあって、2018年いっぱいで12年近く務めた職場を退職することになりました。

2019年から務めた職場は前職より給与も良く、新しい領域の仕事でもあり、張り切っていたのですが、新しく作られた職場なのに、職場を作り上げた人たちが古い体質の人たちであり、さらに霞ヶ関の意向を強く受ける職場ということもあって、朝令暮改は日常茶飯事、議題を決めずに行う2時間、3時間のミーティング、失敗は部下になすりつけ、おまけに懲罰規程まで作る始末。昼食は一時間きっちりで帰ってこないと「アイツは昼サボっている」と言われるような環境で、次第に職場の居心地が悪くなっていきました。

前の職場で抱えていた仕事があったため、その仕事を処理するため、週4日新しい職場に勤務することを総務部長と合意していたのですが、上司の事業部長は勝手にフルタイムで来るものと誤解していたらしく、それが気に入らないのか、「フルタイムで来ない人には、仕事を任せられない」とパワハラめいたことをやりだすようになりました。

6月下旬には職場に行くのが嫌になり、上司への嫌悪感を感じるようになったので、通っていた心療内科に抗うつ薬を再度出してもらうようにお願いし、サインバルタ1錠、デパス1錠、ユーロジン1錠をだしてもらったのですが、時すでに遅く、7月に入った頃には3回目のうつ病にかかっていました。

前2回よりもうつ病の原因がはっきりしており、職場環境の悪さであり、そのため、金曜日になると気分が明るくなる一方、日曜日にはずんと気が沈むような日が続きました。

2020年11月6日金曜日

うつ病の発症2回目 3 心療内科による治療 2

 私のうつ病の薬物療法は、2週間に心療内科に行き、10分程度の医師の診察を受け、処方箋でサインバルタ、デパス、ユーロジンをもらって帰る日々でした。

通常、うつ病の急性期は気持ちがぐらぐらと揺れたり、意味もなく泣いたり、逆にそわそわ、いらいらしたり、不眠症になったりし、そのうち死体のように体を動かせなくなるものですが、うつ病の回復期はこれらの症状が治まる代わりに、ただフラットに憂鬱な日々が続きます。

うつ病の急性期はもちろん辛いのですが、私にとっては、毎回、このうつ病の回復期の方が辛く感じます。言葉では回復期と言いますが、本当にゆっくりと回復していくため、自分では回復している実感はありません。

うつ病患者の場合、通常朝が一番つらく、副交感神経に切り替わる夜は体調も気分も良いものです。「明日もこの気分が持続して欲しい!」と毎日願うのですが、現実は残酷で、朝はただ辛い気持ちで目が覚めます。

7月下旬に入った頃、心療内科の主治医の先生から、「これだけ変わらないと、後は何をすればよいだろうねぇ」というようなことを言われ、絶望的な気持ちになったのを覚えています。

うつ病の治療は、ただ毎日薬を飲むだけで、気長にやるしかないんですが、短気な私にはかなり苦しいものでした。

2020年11月5日木曜日

うつ病の発症2回目 2 心療内科による薬物療法 2

 うつ病治療の主流は薬物療法です。

心療内科、精神科、ひょっとすると内科へ通っていらっしゃる方もいるかもしれませんね。

私はこれまでずっと心療内科に通ってきました。うつ病には、急性期、回復期、そして改善へと向かっていきます。

うつ病は風邪などのように、薬を飲んで2、3日で回復する病気ではありません。残念ながら、どれだけ短くても2-3か月、長い方の場合、年単位でうつ病と闘病されています。

私の2回目のうつ病は5月から投薬が始まりました。最初に投薬してもらったのは、抗うつ剤のサインバルタ1錠、抗不安剤のデパス1日3錠、睡眠導入剤のユーロジン1錠だったと記憶しています。

うつ病に効果を示すのは抗うつ薬ですが、いきなり抗うつ薬を2錠も3錠も投薬することはないそうです。患者のうつ病に果たして抗うつ薬が合っているのかどうかを1週間単位で様子を見ながら、症状の重さに合わせ、投薬量を増やしていくということをしていきます。

私の場合、最大サインバルタ2錠、デパス3錠、ユーロジン1錠が2回目のうつ病時の投薬量でした。この治療が7月まで続くことになります。

先にも触れましたが、残念ながら、抗うつ薬が効果を発揮するのは、一週間、二週間経ってからです。従って、すでにうつ病が急性期に入っている場合はその間ずっとうつ病の諸症状に苦しめられることになります。

この時、私は休職せず、うつ病であることを職場に明らかにせずに通い続けましたので、毎朝が地獄のようでした。

2020年11月4日水曜日

うつ病の発症2回目 2 心療内科による薬物療法 1

 うつ病の発症は、眠れないことから始まりました。夜寝室に行っても、夜中の2時くらいに目が覚めてしまい、その後は目がさえて眠れないのです。

毎日11時までに寝室に入るのですが、2時、3時、時には1時半に目が覚めてしまいます。睡眠障害はうつ病の初期症状の一つなのだそうですが、他に中途覚醒する人や、不眠という人もいるようで、症状は人によって異なるようです。

早期覚醒が続くと、焦りが募るようになり、一週間もしないうちに、頭の中にもやがかかったように、どんよりとした気持ちになるようになりました。また、物事に対し、悲観的になり、周囲が自分を避けている、あるいは、嫌っているような妄想を抱くようになり、今までは職場の同僚をランチを食べに行っていたのを一人でいくようになりました。

この時点ですでにうつ病を発症していたのだと思います。朝目が覚めるとただ憂鬱で、なにもやる気が起きない、日によっては死にたいとすら思う中、ムリヤリ服を着替え、通勤電車に揺られ、職場に通っていました。

心療内科へ行くように勧めてくれたのは妻でした。妻が勧める心療内科は完全予約制のため、電話をして予約が取れたのは、なんと3週間後😱😱😱

放置しておくとうつ病の症状がひどくなるので、やむなく、横浜市内にある別の心療内科に最初に行きました。待合室で待たされた時間が1時間半。ただただ、待つのが辛かった(うつ病になると、私は時間が長く感じるようになるようです)覚えがあります。

2020年11月3日火曜日

うつ病の発症2回目 1 うつ病の兆候

 うつ病を初めて発症した2006年から、10年もの間、うつ病を発症することなく過ぎていきました。

うつ病の2回目の発症は、2016年の4月下旬でした。うつ病発症のきっかけはささいなことで、海外駐在していた部下が、同じ国に住んでいる日本人の妬みを買い、私たちが事業を行っている組織に密告をしてきたことに対し、その本部の監査部署から呼び出しを食らったことでした。

私自身、このことそのものがうつ病の発症になったとは思っていません。うつ病は、複数のストレス要因が重なり、発症することが多いようで、上に言及したことは、ただの引き金にすぎないと思っています。

私は前年の2015年、多くの担当プロジェクトを抱え、年間70日以上海外を飛び回るスケジュールをこなしていました。これだけでも十分ストレスフルで、うつ病発症のきっかけになりそうですが、それに加え、上司の指示もあり、ある霞ヶ関の公示案件を受注することになりました。

案件の主担当を担うにあたり、上司に、「必ず英語のできる部下1名、ロジのできる部下1名を配置してください」とお願いし、上司がそれを守るということで、事業の担当を引き受けました。

ところが、ふたを開けてみたら、霞ヶ関は仕様書(契約書の業務指示書のようなものです)とは異なる内容を押し付けてくるし、海外10か国以上から関係者を招待するのに開催地は国際線の飛んでいない沖縄のある島で会場を確保しているので、そこでやるようにとの指示。

ホテルも霞ヶ関側でおさえてあるからそちらを使うように、とのことなので、下見に行ってみると、夏休みにサーファーが泊まりに来るような低コストの、ホテルとは名ばかりのゲストハウスのような施設で、ビジネスセンターはおろか、コピー機が1台あるのみ😱😱。

おまけに、イスラム教圏からの出席者が半数を超えるのに、開催地は豚をよく食べる地方で、ハラルミールなんてありえないような土地柄。現地の下見で、めまいがしました😵😵。

輪をかけてストレスになったのが、上司が配置した部下でした。一人は英語力、ロジ能力が高く、彼女には旅行会社と招へい者の間のやり取りをまかせられたのですが、残りの人員が・・・。一人は指示待ち族で、指示がないと全く動けない人、もう一人は急きょ雇われた大学生。実質どちらも戦力にもなりませんでした😭😭

毎日夜の9時、10時まで仕事をし、休日も海外とのやり取りをする日々が2か月以上続き、その間に海外出張を2本こなしました。タイの空港の乗り継ぎカウンターで、なんで霞ヶ関からの書類に目を通しているんだろうと、疑問を感じたものです。

この時点でうつ病は発症していませんでしたが、まともな人員配置を行わなかった上司に対する怒りといら立ち、理不尽を押し付けてくる霞ヶ関に対する憤りは蓄積され、蕁麻疹が出るくらい、霞ヶ関の担当者の顔も見るのが嫌になっていました。

事業はなんとか4月には終了しましたが、私の精神状態はすでに限界だったようです。こうして、☝に上げた些細なことでうつ病を発症してしまいました。

うつ病1回目の発症3 急性期から一気に回復期へ

 納得しないまま、親の会社で働いていたところ、以前にお世話になった方から、自分の海外での経験が活かせるポジションが空くのだが、興味がないか?と打診を戴きました。

自分には、願ってもない職種、ポジションであり、二つ返事で引き受けることを回答しました。自分のうつ病が一気に快方に向かったのはこの出来事があったからで、人生後ろ向きにしか考えられていなかったのが、その仕事につくための心構えをほんの数週間で整えてしまいました。

うつ病で判断できない中でのことであったとは言え、父や、父の会社には本当に不義理をしてしまいましたし、海外から日本へ帰ってきて、また1年も経たぬうちに引っ越すことで、妻にもかなり叱られました。

しかし、周り中に不義理を尽くしたこの転職が、結局うつ病の寛解につながりました。本当に不思議なもので、転職してからは、全くうつ病の症状は出ず、引っ越し先では心療内科にも精神科にも通うこともやめてしまいました。

なお、本来は抗うつ薬や抗不安剤を少しずつ抜いていく過程が必要であり、私がこの時にやったように、一気にうつ病の薬物療法をやめてしまうのは危険なことなのだそうです。

こうして、晴れて初回のうつ病は寛解したのですが、うつ病発症のきっかけは海外生活での過酷な就職活動と短期間での引っ越しの繰り返しであり、うつ病寛解のきっかけはやりがいのある仕事につけたことだったと考えています。

2020年11月2日月曜日

うつ病の発症1回目 2

 うつ病を発症したまま帰国してからの日々は、自分には地獄のようでした。

実家の近所の心療内科に通いつつ、親の言われるまま、親の経営する会社に毎日通いました。

母親からすれば、「良かれ」と思ってやってくれたことなのでしょうが、「うつ病の時に大きな決断をしてはいけない」という原則からすると、うつ病急性期で判断能力のなかった自分を親の会社に放り込んだのは、跡取りとして期待していた父にとっても、本音では全く親の会社を継ぐ気がなかった自分にとっても、不幸なことでした。

当時は、うつ病の症状のため、毎朝ただ気が重い、肩や腰が凝ってだるい、人生が終わったような気持ちで、父の会社の工場で事務仕事をやりつつも、むりやり笑顔を作り、定時になったら帰宅するの繰り返しでした。

うつ病にかかったことのある人なら一度は訪れたことがあるのは、心療内科か精神科ではないでしょうか。私は当時心療内科に通っていましたが、抗うつ薬と、抗不安剤を毎食後飲むように処方されていました。残念ながら、薬の名前は憶えていません、

ただ、やたらに眠気の強い薬があり(おそらく、抗不安剤)、工場の人を通じ、父や母から、自分はしょっちゅう居眠りをしている、と叱られました。これも今にして考えれば、両親ともうつ病治療への理解がなかったわけで、抗うつ薬や抗不安剤の多くには、精神を安定させるため、眠気を誘発する効果があります。

うつ病急性期のまま、約半年抗うつ薬と抗不安剤を服用しながら、毎日父の職場へ通っていましたが、半年を過ぎた頃、大きな転機が訪れました。

2020年10月31日土曜日

うつ病の発症1回目 1

 こんにちは。うつ病歴4回のsnowcapです。

これから、私のうつ病にかかった原因、過去3回のうつ病寛解に至るまでの経緯、うつ病の治療の内容、うつ病発症中に考えていたことや実践していたことを書き綴っていきたいと思います。

うつ病の日本人の生涯有病率は約7.5%と言われています。双極性障害も含むと、9%にもあがり、約10人に1人がうつ病を経験するということになります。

うつ病は「心の風邪」と例えられます。しかし、「心の風邪」などという生易しいものではなく、患者の立場で言えば、「心のガン」のように感じます。

うつ病にかかると、うつ病のせいで、毎日「死にたい」、「消えたい」という意識にさいなまれ、集中力が持続しないために仕事が手につかず、自分に自信を失い、神経をすり減らし、ヘトヘトになってしまいます。

うつ病の詳しい症状のことはさておき、私自身のうつ病の経験に焦点をあて、このブログを書いていきたいと思います。

私とうつ病との付き合いはすでに14年になります。

2006年、永住権を取ってバラ色の人生に憧れ、移住したオーストラリアで突き当たった仕事探しの大きな壁でした。

オーストラリアは、日本のように、大卒学生が一斉に就活を行いません。新卒も中途も就活を行う人は、ネット上で掲示される求人募集にカバーレター、志望動機、経歴書の3点セットを添え、郵送するだけです。

一件簡単に聞こえますよね?

これが本当に、地獄なんです・・・。まず、返事が返ってきません。返事がないことイコール不採用なんです。何通送っても、返事が返ってこない。これには、本当に参りました😰

私が4か月で出した書類一式は300通以上。電話がかかってきたのは、わずかに5件程度😱

やっと面接までたどり着いたのは、4か月目。採用された時にはすでにうつ病にかかっていました・・・。念願のオーストラリア生活を始めるための公務員のポジションを得たのに、なぜか職場に行くと涙が止まらない。1か月毎日片道70キロの道をくたくたになりながら運転し、帰ってはただ「日本へ帰りたい」と思うようになっていました。

その頃はうつ病と気づかず、4日間の休みをムリヤリもらって、帰国して日本で診断してもらった結果が「うつ病」でした。

うつ病の厄介なのは、風邪のように、抗生物質を飲めば数日で収まるというものではないことです。特に、うつ病の進行が進んでいると、回復曲線に戻るまで何か月、何年もかかることです。

私は泣く泣くオーストラリアの仕事を諦め、わずか一か月で退職届を出し、帰国しました。




うつ病の治療 抗うつ薬・抗不安剤とその薬効 抗不安剤とは

 抗うつ薬と共に、心療内科や精神科で多く出される薬が抗不安剤です。抗不安薬、精神安定剤という言葉も用いられ、むしろその方が馴染みが深いかもしれません。 抗不安剤は、不安・緊張・恐怖・焦燥などを抑えるため、内科や外科などでも処方されていますが、精神科・心療内科では、セロトニン系抗う...